ヴァルター・グロピウスの登場


 グロピウスは、1903年からミュンヘンも工科大学で、1905年から7

までベルリンの工科大学で建築を学んだ。彼の家は、代々建築関係の仕事につい

たものが多かったことから彼も自然にその方面の勉強を志したのであろう。彼は

学業を終えたあと1907年から1910年までベルリンで中堅の建築家として

活躍していたペーター・ベーレンスの助手を勤めた。そして1910年、グロピ

ウスは独立して自分の建築事務所をベルリンに開き、ベーレンスの事務所で知り

合ったアドルフ・マイヤーと共同で仕事を始める。その後ドイツ工作連盟のメン

バーとして活躍し、1914年のケルンで開催された工作連盟の展覧会において

注目を浴びる。グロピウスは当時の先端を行く新しい技術を積極的に建築に取り

入れ、建築の工業化あるいは工業建築を実践と理論の両面から時代の先頭になっ

て推進していた。バウハウスの構想は、第1次世界大戦時からひそかに準備が進

行していた。そして、1919年、第1次世界大戦の敗戦と疲弊の中で、ドイ

ツ、チューリンゲンの首都ヴァイマルで、建築家ヴァルター・グロピウスは新し

く組織された国立造形学校を設立する。こうしてバウハウスは開校された。初

代校長の彼の考えは、芸術と工業を統合して、新しい社会に適合した造形分化を

築くために、工業社会に適応できるデザイナーを育成することにあった。この考

えのもとには、ウィリアム・モリスからの人間的な生活分化の樹立という理想主

義と、先行するドイツ工作連盟の理念の継承があった。「芸術と技術の統合」を掲

げたグロピウスは、当時の工芸大学とはまったく異なった組織と教育を目指し、

最終的には総合芸術である建築に取り組む半年間の予備教育と3年間の工房教育

の課程を設定し、造形家や画家を招いてこれに当て、ヨハネス・イッテン、オス

カー・シュレンマー、パウル・クレー、ワシリー・カンディンスキー、モホリ・

ナギー、などいずれも20世紀を先駆する抽象芸術家であった。ヴァイマルでは

模索の時期であったが、バウハウスの最もユニークな基礎教育の形がヨハネ

ス・イッテンによって与えられ、他の教師たちによっても実験的な教育方法が編

み出された。余談だが、バウハウスというのは「建築の家」というほどの意味で

あるが、普通に使われる言葉ではなく、グロピウスの造語ならしい。


   参考文献:バウハウス−歴史と理念  利光 功著(美術出版社)


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