「音」の原風景 ―私のドイツ語教育の背景にあるもの―

境 一三

『Laterne』96号、同学社、2006年9月、16-18ページ

 人にはそれぞれ音の嗜好がある。それはなにもクラシックやジャズやロックといった音楽の趣味だけではない。ある人にとってそれは京浜急行電車のモーター音だろうし、また別のある人にとってそれは Harley-Davidson のエグゾーストノートだろう。では、お前にとっての音は何かと自らに問うてみる。どうやらそれは、まず第一に人間の声のようだ。

 小学校に上がる前、母は下宿屋をやっていた。日本のさまざまな土地からやってくる大学生や会社員。かれらの声の不思議な抑揚や口から出てくる知らない単語。初めて「あほ」といわれた時の戸惑いと違和感。一つの屋根の下で、なんとさまざまな声に囲まれていたことか。

 中学に入ると、新しい音に出会った。英語だった。まったく理解不可能な音。それでも人間が発する声だ。何かを言っているはずだ。その何かを受け取りたくて、教室でもラジオの前でも耳をそばだて、ひたすら音をまねた。ある時スピーカーからこんな歌が聞こえてきた。

 

Hickory Dickory Dock,
The mouse ran up the clock.
The clock struck one,
The mouse ran down!
Hickory Dickory Dock.

 

 小気味の良いリズムと歯切れのいい音。そこにいるのは、ぴゅーっと柱時計を駆け上がりまた駆け下るネズミ。なんと楽しげな光景!あっという間にこの音たちの虜になっていた。

 そしてまた別の音。それはアマチュア無線の音。ピーヒョロピーヒョロ、ピーピーヒョロー(CQ)と電源事情の悪いシベリアから届く不安定なモールス信号。ガーガーという雑音の中からかすかに聞こえるナウルやトンガの人の声。それは遠い国からの音の贈り物だった。なんとか答えようと、必死で聞き耳を立てた十六歳の春。

 その頃、新しいことばを学びはじめた。毎日交信するロシア人と、英語ではなくかれらのことばで話したかった。ラジオを聞き、テレビを見た。たちまち音に惹かれた。テレビ講座で定期的に演奏し歌うバンドに釘付けになった。哀調を帯びたメロディー、豊かなR音、深みのある声、どれも魅力的だった。

 結局、人と人の心をつなぐ音に一番関心があったということだろう。大学に入ってドイツ語を学び始めたが、あっという間に落ちこぼれた。想像もしていなかった文字の大群と規則と表の嵐がちっぽけな十八歳を攫っていった。かろうじて一つ二つの授業で音は人をつないでいた。そこでは音を楽しむことができたが、あとは苦痛でしかなかった。文学作品を読む時も、教師は音の楽しみ方を教えてくれなかった。(そもそもかれら自身は楽しんでいたのだろうか?)

 「文字は音の影」ということを聞いたのは高校生の頃だっただろうか。いたく感心した。当時すでに、「日本語も満足にできない自分がなぜ英語を学ぶのか」という疑念に端を発する英語学習の中断から復帰していたが、英語の音にはまだ戻りきっていなかった。その時の私にとって、英語は体系としての日本語を知るための鏡としてのみ意味のあるものだったから、実際にどのような声が交わされているかはどうでもよかったのである。しかし「文字は音の影」ということばを聞いて、音を学ぶことこそ言語を学ぶことだと確信を得た。

 もともと哲学を学ぶために始めたドイツ語だったが、回り道に回り道を重ねた十四年の大学生生活を経て、気づいたらドイツ語教師になっていた。しかも、哲学や文学の研究などはかなぐり捨てて、今では言語教育学を看板に掲げている。

 言語教育学は教師のビリーフを相対化するところから始まる。何を教えるか、どのように教えるかは学問的に決めなければならない。それはまた政策的決定でもある。このことは分かっている。分かって実行しているつもりだ。しかし、こうした学問的・政治的枠組みをすり抜けてどうしても顔を出してしまうものがある。それは教師の体験に基づく信念だ。しかもその信念は(理論武装しつつも)究極的には嗜好に支えられているのだろう。

 だから、私が「生き生きとしたことばを学んで欲しい」と願った時、それはまず第一にドイツ語の音のシャワーを浴びせかけるという形を取る。雨を受ける植物のように、たっぷり養分を吸収して欲しい。そしてそこからゆっくりと、ことばによって紡ぎ出された社会や文化のさまざまな有り様に触れていって欲しいと考えているのである。

慶應義塾大学教授